2010年 09月 05日
前衆議院、赤池まさはる氏のブログより
本日のブログで下記の文章が掲載されていました。
備忘の為にここにアップしておきます。
工藤美代子著『関東大震災―朝鮮人虐殺の真実』(産経新聞社刊)
「SAPIO」で1年に渡って連載されていたものです。阪神淡路大震災から15年、日韓併合から100年、関東大震災は、防災問題であることはもちろんですが、国家や先人の名誉の問題でもあり、歴史、外交問題でもあります。以下、同誌から要旨を抜粋します。
(要旨)
関東大震災が起きた大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉に代表される通り、憲政擁護、護憲運動が起こり、藩閥政治から政党政治へ移行し、普通選挙の要求(納税額での選挙権の制限解除)がなされます。そのような民主化が進む中で、大正6(1917)年のロシア革命が起こります。共産主義による世界革命運動が、労働、農民、学生、朝鮮独立等の運動を過激化させました。また、日韓併合によって、朝鮮半島から内地へ大量の労働者が移入しました。1911(明治44)年日韓併合前には1千人にも満たなかった朝鮮人が関東大震災時には8万人となり、終戦時には200万人にも急増しました。大正8(1919)年3月1日の朝鮮での「3.1独立運動」は、ソウルのパコダ公園から始まり、全土で武装闘争、騒擾事件となり、1万人以上が逮捕される事態となりました。その中心人物は、大陸で再起を期し、また密航者として日本に渡りました。それ以来、日本において、朝鮮人による危険な犯罪やテロが横行します。大正8年の10月31日の天長節(大正天皇誕生日)には外務省で爆弾事件が起こり、大正9年には首相官邸を襲撃するために、爆弾数個と陰謀書類が発見され、朝鮮人が逮捕されたりもしました。国内各地で、また朝鮮半島でも、朝鮮人独立運動家の事件が頻発したのです。今では考えられない過激なものであったことを十分理解する必要があります。朝鮮独立運動に、過激な共産主義が加わるわけですから、当時の社会情勢は不穏なものでした。さらに、大正天皇の御不例(病気)、米騒動、暗殺事件、政治の不安定化など、大変な時代でした。
関東大震災の直前、8月24日加藤友三郎前首相(海軍大将)が急死し、震災時は山本権兵衛に大命が降下し、ちょうど組閣中でした。加藤友三郎前首相はその1年2カ月前に高橋是清内閣から引き継いだばかりでした。その高橋内閣も、原敬元首相が大正10年11月4日に東京駅で暗殺されて総理に就任しましたが、与党立憲政友会の内紛によって半年で瓦解してしまったのです。今のように、当時も毎年総理が変わっていました。山本権兵衛は9月2日夜7時に、震災の猛火の中で赤坂離宮の庭のあずまやにおいて、摂政宮(昭和天皇)から親任されました。大正天皇が御不例のため、大正10年には皇太子(昭和天皇)が摂政に就任していました。摂政宮は組閣が遅れたため赤坂離宮におられました。組閣が早く済んでいれば、箱根宮の下の御用邸に行幸することになっていたと言います。箱根は震災で壊滅的な被害を受けており、被害を免れることになりました。
以上のような社会情勢の中で、関東大震災が起きたのです。その災害の最中に、朝鮮人独立運動過激派による放火・テロが横行し、それに対抗して、警察や自警団の防衛活動があったというのです。その過程で、残念ながら233名(内務省報告)の朝鮮人が自警団の過剰防衛によって殺害されることになりました。その後事態を複雑にしたのは、後藤新平内務大臣や正力松太郎警視庁官房主事(実質NO2)が、治安維持のために、戒厳令を布告し、自警団を引かせるために、報道操作し、朝鮮人襲撃を「流言蜚語」としたことです。自警団と朝鮮人過激派の対立激化は、さらなる騒擾を起し、摂政宮への襲撃を恐れたからだというのです。
いったい当時どれだけの朝鮮人が死亡したのか?震災直後に京浜地区にいた朝鮮人は約9800人でした。その内習志野の陸軍廠舎に3169人、東京市内各警察署に2500人、目黒競馬場に617人、埼玉、栃木の各警察署に471人、神奈川県庁に40人が保護収容されていました。内務省が発表した殺害された朝鮮人は233人で、その差は2770人で、朝鮮人の死者・行方不明者ということになります。この中にどれだけのテロリストが含まれるのか?下町の日本人の対人口死亡率が15%で、朝鮮人の場合は20%として、当時京浜地区に住んでいた朝鮮人から割り出すと1960人が被災による死亡者となります。2770人から1960人を引くと、810人となり、これがテロリストとして殺害されたのではないかと推定しています。朝鮮人テロリスト数百名が震災に乗じて、放火や殺人暴行を繰り返していたというのです。驚くべき事態だったと言えます。
このような波状攻撃を画策したテロ集団の実態は、朝鮮独立をめざす「大韓民国臨時政府(上海仮政府)」であり、彼らの最終目標は摂政宮(昭和天皇)であったということです。
(要旨終わり)
私は工藤女史の本を読みながら、以上が真実だとすれば、驚くべき事態だったと感じました。当時の日本が置かれた苦難とそれに対応した先人たちの努力を思うと「朝鮮人虐殺」という自虐、不名誉を放置するわけにはいきません。関東大震災の教訓として、防災問題はもちろん、テロ対策の面からも学ぶ必要があります。政府は改めて事実調査をすべきだと思いました。
工藤女史の労作、好著をぜひ多くの方に読んでほしいと思います。
備忘の為にここにアップしておきます。
工藤美代子著『関東大震災―朝鮮人虐殺の真実』(産経新聞社刊)
「SAPIO」で1年に渡って連載されていたものです。阪神淡路大震災から15年、日韓併合から100年、関東大震災は、防災問題であることはもちろんですが、国家や先人の名誉の問題でもあり、歴史、外交問題でもあります。以下、同誌から要旨を抜粋します。
(要旨)
関東大震災が起きた大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉に代表される通り、憲政擁護、護憲運動が起こり、藩閥政治から政党政治へ移行し、普通選挙の要求(納税額での選挙権の制限解除)がなされます。そのような民主化が進む中で、大正6(1917)年のロシア革命が起こります。共産主義による世界革命運動が、労働、農民、学生、朝鮮独立等の運動を過激化させました。また、日韓併合によって、朝鮮半島から内地へ大量の労働者が移入しました。1911(明治44)年日韓併合前には1千人にも満たなかった朝鮮人が関東大震災時には8万人となり、終戦時には200万人にも急増しました。大正8(1919)年3月1日の朝鮮での「3.1独立運動」は、ソウルのパコダ公園から始まり、全土で武装闘争、騒擾事件となり、1万人以上が逮捕される事態となりました。その中心人物は、大陸で再起を期し、また密航者として日本に渡りました。それ以来、日本において、朝鮮人による危険な犯罪やテロが横行します。大正8年の10月31日の天長節(大正天皇誕生日)には外務省で爆弾事件が起こり、大正9年には首相官邸を襲撃するために、爆弾数個と陰謀書類が発見され、朝鮮人が逮捕されたりもしました。国内各地で、また朝鮮半島でも、朝鮮人独立運動家の事件が頻発したのです。今では考えられない過激なものであったことを十分理解する必要があります。朝鮮独立運動に、過激な共産主義が加わるわけですから、当時の社会情勢は不穏なものでした。さらに、大正天皇の御不例(病気)、米騒動、暗殺事件、政治の不安定化など、大変な時代でした。
関東大震災の直前、8月24日加藤友三郎前首相(海軍大将)が急死し、震災時は山本権兵衛に大命が降下し、ちょうど組閣中でした。加藤友三郎前首相はその1年2カ月前に高橋是清内閣から引き継いだばかりでした。その高橋内閣も、原敬元首相が大正10年11月4日に東京駅で暗殺されて総理に就任しましたが、与党立憲政友会の内紛によって半年で瓦解してしまったのです。今のように、当時も毎年総理が変わっていました。山本権兵衛は9月2日夜7時に、震災の猛火の中で赤坂離宮の庭のあずまやにおいて、摂政宮(昭和天皇)から親任されました。大正天皇が御不例のため、大正10年には皇太子(昭和天皇)が摂政に就任していました。摂政宮は組閣が遅れたため赤坂離宮におられました。組閣が早く済んでいれば、箱根宮の下の御用邸に行幸することになっていたと言います。箱根は震災で壊滅的な被害を受けており、被害を免れることになりました。
以上のような社会情勢の中で、関東大震災が起きたのです。その災害の最中に、朝鮮人独立運動過激派による放火・テロが横行し、それに対抗して、警察や自警団の防衛活動があったというのです。その過程で、残念ながら233名(内務省報告)の朝鮮人が自警団の過剰防衛によって殺害されることになりました。その後事態を複雑にしたのは、後藤新平内務大臣や正力松太郎警視庁官房主事(実質NO2)が、治安維持のために、戒厳令を布告し、自警団を引かせるために、報道操作し、朝鮮人襲撃を「流言蜚語」としたことです。自警団と朝鮮人過激派の対立激化は、さらなる騒擾を起し、摂政宮への襲撃を恐れたからだというのです。
いったい当時どれだけの朝鮮人が死亡したのか?震災直後に京浜地区にいた朝鮮人は約9800人でした。その内習志野の陸軍廠舎に3169人、東京市内各警察署に2500人、目黒競馬場に617人、埼玉、栃木の各警察署に471人、神奈川県庁に40人が保護収容されていました。内務省が発表した殺害された朝鮮人は233人で、その差は2770人で、朝鮮人の死者・行方不明者ということになります。この中にどれだけのテロリストが含まれるのか?下町の日本人の対人口死亡率が15%で、朝鮮人の場合は20%として、当時京浜地区に住んでいた朝鮮人から割り出すと1960人が被災による死亡者となります。2770人から1960人を引くと、810人となり、これがテロリストとして殺害されたのではないかと推定しています。朝鮮人テロリスト数百名が震災に乗じて、放火や殺人暴行を繰り返していたというのです。驚くべき事態だったと言えます。
このような波状攻撃を画策したテロ集団の実態は、朝鮮独立をめざす「大韓民国臨時政府(上海仮政府)」であり、彼らの最終目標は摂政宮(昭和天皇)であったということです。
(要旨終わり)
私は工藤女史の本を読みながら、以上が真実だとすれば、驚くべき事態だったと感じました。当時の日本が置かれた苦難とそれに対応した先人たちの努力を思うと「朝鮮人虐殺」という自虐、不名誉を放置するわけにはいきません。関東大震災の教訓として、防災問題はもちろん、テロ対策の面からも学ぶ必要があります。政府は改めて事実調査をすべきだと思いました。
工藤女史の労作、好著をぜひ多くの方に読んでほしいと思います。
by vancouver-canada | 2010-09-05 16:43 | 歴史

